日本における第九の初演第一次世界大戦後に徳島に収容されたドイツ人俘虜たちは、実に多彩な活動をし、西欧特にドイツの優れた文化や技術を伝え、今日に繋がる実績を残した。特に、音楽面では、楽器や楽譜の製作、調達に苦労しながらも、なんと五つのオーケストラと二つの合唱団を結成した。実績を積み重ね、技量を向上させながら取り組んだ最大のイベントが、日本初演のベートーベンの第九の演奏である。
日本で収容、ドイツ捕虜 話は、第一次世界大戦にさかのぼる。日英同盟の誼みにより、英国の要請を受けた我が国は参戦、大正三年(1914)太平洋のドイツ領の諸島とともに、ドイツの租借地であった青島(チンタオ、中国山東半島)を攻撃した。敗れたドイツ将兵約五千は捕虜となり、九州から関東に到る各地に収容された。その後、大正六年収容所が再編整備され、四国では鳴門郊外の板東に約千名が集められた。世に言う板東俘虜収容所である。
ここに、世界史上類例をみない、俘虜たちの創造・文化の活動や地域住民との交流が始まった。(ちなみに、当時の捕虜は収容されると俘虜と呼ばれた。)
ドイツ俘虜の多彩な活動 俘虜には、民間人も含まれていた。俘虜たちは、実に多彩な活動をし、西欧特にドイツの優れた文化や技術を伝え、今日に繋がる実績を残した。例えば、人々に酪農経営を教え、パン・バター・チーズの製法、園芸栽培法、印刷技術を伝授した。収容所の中に、自らの手で、印刷所・図書館・音楽室など、様々な施設を作り、外では、橋を架けた等々。また演劇、スポーツ、芸術の分野の活動が活発であった。
特に、音楽面では、楽器や楽譜の製作、調達に苦労しながらも、なんと五つのオーケストラと二つの合唱団を結成した。演奏回数は数多く、時折、市内でも開催された。その一つが、四国八十八箇所一番札所の霊山寺おけるエンゲル楽器団の演奏である。(この写真がよく各種の印刷物に使用されているので、目にした人もおられると思う。)
ついに、本邦初演の第九に到る 実績を積み重ね、技量を向上させながら取り組んだ最大のイベントが、ベートーベンの第九の演奏である。困ったことに、第九となればソリストと合唱団に女声が必要となる。もとより、俘虜は男ばかりなので、やむを得ず、楽譜の該当部分を男声用を書き換えるなど、幾多の苦労を重ねながら練習したという。ついに、大正七年(1918)六月一日、軍楽長へルマン・ハンゼンの指揮の下、収容所内で全曲演奏された。合唱団は八十名であった。本邦初演の「第九」であり、しかも大正年他に日本で演奏されることはなかった。ベートーベン自身による初演から数え九十四年後の、また、数多くの人が「第九」を歓迎し始める契機となった、ワーグナー指揮の演奏から七十二年後の、壮挙である。そして、本邦初演から64年後の昭和五十七年、この六月一日は鳴門市の「第九の日」となり、第九を縁とする鳴門市や徳島の内外との交流の出発点となった。
鳴門の板東に、ドイツ捕虜の文明が花開いた理由 では、なぜ、日本各地にあった俘虜収容所の中で、ここだけ、このような異例の活動ができたかという疑問に行き着く。往時のドイツ将兵の水準の高さだけでは説明がつかない。それなら、他の収容所でも似たようなことができたはずである。私は、このほどこの地を訪ねる機会があったので、鳴門市長さん外、何人かの方にこの疑問をぶつけてみた。皆さんのおっしゃることや資料を総合すると、どうやら次の三点にまとめられる。
第一は、収容所長松江大佐の極めて寛大な俘虜処遇の方針である。会津藩士の子息であった大佐は、明治維新の戦いの中で、敗軍の惨めさを父から聞かされ、人道主義による俘虜の処遇について深く期するところがあったと言われる。この方針により、ドイツ俘虜は比較的自由な生活を送り、また実質外出自由であり、外泊する者もいたようである。収容所の活動や、住民との交流が可能となる素地がここにあった。
弟二に、この地が四国のお遍路さんを受け入れる一番の札所であったことである。人々は、各地からやってくる遍路の旅人を泊め、もてなすことに慣れ、これを誇りとして来た。そこへ、異国の元将兵がやって来ても、受け入れることに抵抗感は少なかったと言われる。人々は、俘虜たちを「ドイツさん」と呼び、多種多様なことを教わり、親しみをもって交流した。その結果、「ドイツさん」も日本文化を受容し、最近わかったことだが、例えば忠臣蔵をテーマに作曲も行われていた。研究や調査が進めば、もっと多くの事が分かってくるだろう。
第三に、この地が塩田や染料の藍の生産などで、当時の日本ではかなり豊かな地域であったことが挙げられる。かくして、収容所や俘虜の活動を経済的に下支えしたり、今日の言葉で言えば、スポンサーのような仕事をした地域の人々も結構いたと言われる。文化は、やはり、相応の豊かさが支えとなるものなのだ。
再確認された偉業と我々 忘れてならないことは、こうした「ドイツさん」たちの事跡も歳月の経過と大きな時間の変遷の中で、その後、あまり取り上げられなくなり、漸く近年に至って、再び注目を浴び、復活再生の流れが出て来たことである。その間、60年余の年月が流れる。歴史が決して一本道でなく、濃淡、紆余曲折を経るものであることがよく分かる。
我が取手「第九」もこの鳴門を含め、既に内外との交流を手掛け、9年余の間三回の演奏を実施、今やドイツでの親善演奏が大詰めを迎えている。広く想いを巡らせれば、我々の実績や試みも、はなはだ意義深いことが理解できよう。
追記:本文末尾に記されている取手「第九」合唱団のドイツ演奏旅行は、昨年(平成七年:1995年のこと)十月の取手での演奏をベースに、昨年末から今年の年始にかけて、筆者を団長とする百六十名余の団員が訪独して行われた。ドイツ側音楽監督、ウェルナー・シュティーフェル指揮の下、バーデン・バーデンフィルハーモニーやソリストとの演奏は、バーデンバーデンなど二都市で行われ、大成功を収めた。そのとき、ドイツ人の聴衆が総起立となった拍手が、七分間も打ち続くなど、素晴らしい感動体験を双方が、共有した。
ともに、敗戦国である日独両国民が戦後五十年の昨年に、平和と友愛を歓喜の曲で歌い上げたのは、意義深いことと言える。
筆者は当時、取手「第九」親睦会会長の任にあり、現在もその役員をしている。
(by
元国土庁審議官:仲津真治)
日本人による初演(1925年11月29日) 日本人による「第九」の初演は、1925年11月29日と30日の両日に行われました。東京音楽学校(後の東京芸術大学)第48回演奏会でのことです。演奏をしたのは、講師生徒あわせて200余名。指揮をしたのはドイツ人のグスターフ・クローン。もともとヴァイオリニストで、ニキシュやリヒャルト・シュトラウスの指揮するベルリン・フィルと全世界を回った経歴の持ち主です。
演奏会は大盛会で、開演の数時間前には入場希望者の列が音楽学校の門を溢れ、となりの美術学校の前まで続いていたといいますし、奏楽堂の中では、溢れた聴衆が両側の通路まで満たしていたといいます。好評につき、同年の12月6日には、早々と再演が行われています。
その次に「第九」が演奏されたのは、ベートーヴェンの没後100年にあたる、1927年のことでした。これがプロのオーケストラによる「第九」の本邦初演になります。オーケストラは、現在のNHK交響楽団の前身にあたる、新交響楽団。指揮はヨーゼフ・ケーニヒ、独唱者は松平里子、斎藤英子、木下保、内田栄一、合唱は日本音楽学校です。この演奏会は、4月28日から5月3日にかけて、4回行われました。
その後、日本における「第九」の演奏は、新交響楽団の独壇場となります。1928年から1935年までに、近衛秀麿の指揮で11回(1928年12月18日および19日に「第九」が演奏されています。12月における本邦初の「第九」の演奏であるとともに、日本人の指揮者による初めての「第九」です)、1936年には貴志康一の指揮で2回、1937年から1941年までにジョセフ・ローゼンストックの指揮で10回。1942年には日本交響楽団と改称した同オケを山田和男(後の山田一雄)が指揮して、12月26日と27日の両日に演奏会を開いています。
第二次大戦後の演奏と”年末の第九”(1948年以後) 新響(N響)以外のプロのオーケストラが「第九」を取り上げるようになるのは第二次大戦後のことでした。1948年には近衛秀麿の指揮で東宝交響楽団(東京交響楽団の前身)が、また、朝比奈隆の指揮で関西交響楽団が「第九」を取り上げています。
(ついでながら宣伝いたしますに、朝比奈隆先生も京都大学音楽部交響楽団のご出身です。先に触れましたメッテル先生の薫陶を受け、一旦阪急電鉄に入社後、音楽の世界に戻ってきたという変わった経歴の持ち主です。)
12月に「第九」を演奏する、いわゆる”年末の第九”が恒例化したのは、1947年、レオニード・クロイツァー指揮の日本交響楽団が12月9日、10日、および13日に演奏して以来のことです。その後、日本交響楽団および後身のNHK交響楽団では毎年のように12月に「第九」を演奏しています。
この習慣が生まれた原因は、「第九」をやるとお客さんが入る → 従って、おカネになるということのようです。
アマチュアの合唱団が「第九」を盛んに歌うようになってきたのは1960年代以降のことです。このころから日本のアマチュア合唱団の実力は「第九」という難曲を歌えるほどに向上してきたのです。合唱団の人たちも年に一度はこの難曲に挑戦してみたいと思うようになってきました。
そして、1983年の年末に、大阪に1万人以上の合唱による「第九」が出現しました。また、「すみだ第九を歌う会」は、1985年2月22日に、ハイデルベルク大学の創立600年記念祭に招かれ、ハイデルベルク交響楽団とドイツ・バッハ協会合唱団とともに、石丸寛の指揮で「第九」を演奏しています。
この時に参加したのは185名ですが、最高齢は85歳の男性で、さらに、芸者衆が3人混ざっていて、現地の人たちの関心を得たと言うことです。
我が国で年末に「第九」を歌う人口は、20万人を越えると言います。これは世界でも異例のことで、外国の指揮者が来日して、この事実を知ると、必ず驚きます。わが関西シティフィルハーモニー交響楽団のマエストロ(常任指揮者)、ズラタン・スルジッチ氏も例外ではありません。ヨーロッパでは「第九」は音楽祭の締めくくりなどで演奏されることが多いようです。また、ドイツの多くの都市で年末に締めくくりに「第九」を演奏する習慣はあるようですが、日本のように何度も演奏することはないようです。
国内の「第九」といえば年末恒例のものがあまりにも有名です。年末の「第九」のことの起こりは、昭和18年、東京音楽学校(東京芸術大学音楽部)の奏楽堂で行われた出陣学徒壮行の音楽会といわれています。
太平洋戦争の状況が悪化する中、法文系学生で満20歳に達した者へも徴兵令がくだったのです。彼らは入営期限を間近に控えた12月の初旬、繰り上げ卒業式の音楽会で「第九」の4楽章を演奏したといわれています。やがて太平洋戦争も終わり、出征した者のうち多くが戦死し、生きて帰ってきた者達で奏楽堂の別れに際に演奏した「第九」を再び、ということになりました。つまり「暮れの第九」の出発は戦場に散った若き音楽学徒への鎮魂歌(レクイエム)だったのです。
その後日本経済の復興とともにオーケストラ団員の越年資金を得るために商売としてかたい第九が演奏されるようになり、しだいにそれが定着していったと思われます。
さて、「鳴門の第九」はといえば周知のとおり、鳴門市の板東俘虜収容所で演奏された捕虜達による演奏会が、本邦初演の「第九」シンフォニーというのが定説となっています。そこから我が鳴門市では演奏された6月1日を第九の日と定め、6月の第一日曜日に演奏会を開催しているのです。
では、なぜ当時他の収容所にくらべ板東収容所だけで、ドイツ兵捕虜と地域住民をまき込んだ極めてまれな交流が始まったのでしょうか。
当時の収容所所長松江大佐は、明治維新の敗軍会津の出身でした。彼の口癖は「武士の情け」であったといいます。敗者や弱者への人並みなずれた人道的共感が、捕虜達への接し方にも表れていました。単に哀れみや同情ではなく「祖国のために堂々と精一杯戦った」勇士への礼節をつくし、自らの信念を貫いたといえます。温和で包容力に富んだ人柄だったと、彼を知る人は口を揃えて賞賛しています。捕虜を人間として信頼し、心服させた管理方針は今日から見ても、民主的かつ人道的と評価されています。
また地元民には「ドイツさん、ドイツさん」といって、家族のように親しむ風潮が広がっていたといいます。幸い、この板東は四国霊場の一番札所でもありました。古くから接待や善根宿の風習は、人々の気持ちに知らず知らずのうちに思いやりが生き続け、異国の兵士達を受け入れることに抵抗感は少なかったと思われます。また松江所長の方針を素直に吸い取れる土壌でもあったようです。
これらの事からわかるようにベートーヴェンがシラーの詩を借りて、人間愛を描きたかったように、「鳴門の第九」はバンドーが生んだ固有の財産であり、地球上から戦火が絶えることのない今、国境を越えて、世界へ発信する『平和へのシンフォニー』でもあるのです。
(By
関西シティフィルハーモニー交響楽団)